私たちの体も、地球も、夜空の星や銀河も、すべて「物質」でできています。ところが物理学の世界には、物質とそっくりなのに電気の性質だけが逆の「反物質」があります。
宇宙が生まれたビッグバンのとき、物質と反物質は同じだけ作られたと考えられています。それなのに、今の宇宙には反物質がほとんど見当たりません。この大きな謎を、確かな事実と語られている説に分けて整理します。
概要
電子や陽子などの粒子には、それぞれ「反粒子」という相棒がいます。反粒子は質量が同じで、電気のプラスとマイナスが逆です。たとえば電子の反粒子は、プラスの電気を持つ「陽電子」です。
粒子と反粒子が出会うと、両方とも消えてエネルギーに変わります。これを「対消滅」といいます。ビッグバン直後の熱い宇宙は粒子と反粒子のペアで満ちていたと考えられていて、両者がまったく同じ数なら、ほとんどが対消滅して物質はほぼ残らなかったはずです。
実際には、反粒子10億個に対して、粒子が10億と1個あったというわずかな差がありました。対消滅のあとに残ったこの「1個」が、今の星や銀河、そして私たちをつくったと考えられています。この差がなぜ生まれたのかは、まだ分かっていません。
確かな事実として分かっていること
反物質は予言され、本当に見つかった
1928年、物理学者のディラックは電子のふるまいを表す方程式を作りました。この式から、電子と同じ質量でプラスの電気を持つ、電子の反粒子の存在が予言されました。1932年、アメリカのカリフォルニア工科大学のアンダーソンが、宇宙線を「霧箱」という装置で調べていて、この陽電子を写真にとらえました。
今では、スイスのジュネーブにある素粒子物理学の研究所CERNの「反物質工場」で、反陽子と陽電子を組み合わせた「反水素」の原子も作られています。
宇宙に反物質のかたまりは見当たらない
自然の中で見つかる反粒子は、宇宙線が何かにぶつかったときなどに1個ずつ生まれたものだけです。反物質でできた星や銀河は、これまで見つかっていません。
もし物質の領域と反物質の領域が並んでいたら、その境目では対消滅が起き、ガンマ線という光が出るはずです。1998年に発表された研究は、ガンマ線の観測をもとに、物質と反物質が同じだけある宇宙は観測と合わないと結論づけました。
物質が残るための3つの条件
1967年、物理学者のサハロフは、反物質より物質が多くなるために必要な3つの条件を示しました。「サハロフの3条件」と呼ばれています。
- 陽子や中性子などの数(バリオン数)が変わる反応があること
- 粒子と反粒子のふるまいに違いがあること(CP対称性の破れ)
- 宇宙の中で、行きと帰りの反応がつり合った状態(熱平衡)からずれた時期があること
CP対称性の破れと小林・益川理論
「CP対称性の破れ」とは、粒子と反粒子のふるまいがわずかに違うことです。1964年、アメリカのブルックヘブン国立研究所での実験で、中性のK中間子という粒子の崩壊から、初めてこの破れが見つかりました。実験を率いた2人の研究者は、1980年のノーベル物理学賞を受賞しています。
1973年、小林誠博士と益川敏英博士は、素粒子「クォーク」が6種類以上あればこの破れを説明できるという理論を発表しました。当時、クォークは3種類しか確かめられていませんでしたが、その後、残りもすべて見つかりました。
2001年には、高エネルギー加速器研究機構(KEK)のBelle実験とアメリカのBaBar実験が、B中間子という粒子で、理論の予言どおりの破れを確かめました。小林博士と益川博士は、2008年にノーベル物理学賞を受賞しています。
知られている破れだけでは足りない
小林・益川理論は、素粒子の基本的な理論「標準理論」に組み込まれています。ところが、この理論が説明するCP対称性の破れは、今の宇宙にある物質の量を説明するには何けたも小さいと見積もられています。
さらに標準理論のままでは、3つめの条件の熱平衡からのずれも満たせないとされています。そのため、標準理論を超える新しい物理が必要だと考えられています。
バリオンでも見つかった破れ
CP対称性の破れは長い間、2つのクォークでできた「中間子」でしか見つかっていませんでした。2025年、CERNの大型ハドロン衝突型加速器(LHC)を使うLHCb実験は、陽子や中性子と同じく3つのクォークでできた「バリオン」の崩壊で、初めてこの破れを観測しました。
成果は同じ年の7月に、科学誌ネイチャーに掲載されています。ただし、この結果も宇宙の物質と反物質の差の謎を解くものではないとされています。
反物質も下に落ちる
CERNのALPHA実験は2023年、反水素の原子が、ふつうの物質と同じように重力で下に落ちることを初めて直接確かめました。同じCERNのBASE実験は2022年、陽子と反陽子の電気と質量の比が、1兆分の16という精度で同じだと発表しています。これらの実験では、反物質とふつうの物質の違いは見つかっていません。
語られている主な説
重いニュートリノが物質を残したという説
注目されている説の一つが「レプトジェネシス」です。1986年、当時、京都大学と東北大学に所属していた2人の物理学者が提案しました。
この説では、宇宙の初めにあったとても重いニュートリノの仲間が壊れるとき、CP対称性の破れによって、電子やニュートリノの仲間(レプトン)とその反粒子の数に差が生まれたと考えます。その差が、のちに陽子や中性子などの数の差に移し替えられたというものです。ふつうのニュートリノがとても軽い理由も、同じ重いニュートリノで説明できるかもしれない点が魅力とされています。
2020年、日本のT2K実験は、茨城県東海村のJ-PARCで作ったニュートリノを、295キロメートル離れた岐阜県飛騨市神岡町のスーパーカミオカンデで観測した結果を、ネイチャーに発表しました。ニュートリノのCP対称性の破れの大きさを決める値について、取りうる範囲のほぼ半分を、99.7%の確かさで否定するものでした。
まだ破れの発見ではありませんが、ふつうのニュートリノで破れが確かめられれば、この説に欠かせない材料の一つがそろうと考えられています。
標準理論を広げれば説明できるという説
標準理論に未知の粒子や力を加えれば、宇宙の初めに3つの条件がそろい、物質を残せたのではないかという研究も数多くあります。ただし、まだ決め手はありません。
どこかに反物質の世界があるという説
宇宙のどこか遠くに、反物質でできた星や銀河があるのではないかという考えもあります。国際宇宙ステーションでは2011年から、観測装置AMSが宇宙線の中に反ヘリウムの原子核などを探しています。反ヘリウムが確かに見つかれば、反物質の星や銀河がある強い証拠になると考えられています。
AMSのチームは、反ヘリウムかもしれない信号をいくつか講演で紹介していますが、確かな発見にはなっていません。また、先に触れた1998年の研究のように、大きな反物質の領域には観測から厳しい制限があります。
なお、AMSは、見えない物質ダークマターの手がかりも探しています。
詳しくはこちら:ダークマターとは?宇宙の4分の1を占める見えない物質の謎
今も残る謎
物質と反物質のわずかな差が、いつ、どのように生まれたのかは、今も分かっていません。ニュートリノなのか、未知の粒子なのか、決着はついていないのです。
日本では、スーパーカミオカンデの約8倍の有効体積を持つ「ハイパーカミオカンデ」の建設が、岐阜県飛騨市の地下で進んでいます。2028年の観測開始を目指していて、ニュートリノのCP対称性の破れの発見は、その大きな目標の一つです。
まとめ
ビッグバンでは物質と反物質が同じだけ生まれたはずなのに、今の宇宙には物質しか見当たりません。反粒子10億個に対して粒子が1個だけ多かったというわずかな差が、星や銀河、そして私たちを残しました。
CP対称性の破れは見つかっていますが、知られている大きさでは足りません。ニュートリノや加速器の実験、宇宙での観測から、答えに迫る研究が続いています。
僕のひとりごと
僕がこのテーマで一番ぐっとくるのは、10億個に1個というほんのわずかな差がなければ、星も地球も僕たちも生まれなかったということです。自分の体が、宇宙の始まりに対消滅をまぬがれた「生き残り」でできていると思うと、なんだか不思議な気持ちになります。小林・益川理論やT2K実験など、日本の研究者たちがこの謎の真ん中で活躍してきたことも、うれしく感じました。ハイパーカミオカンデが動き出したら、どんな答えが見えてくるのか楽しみです。
参考情報
- CERN「Antimatter」
- 日本物理学会誌「なぜ我々は物質だけからできているのか?」(2017年1月号、PDF)
- 山中卓「J-PARC E14 KOTO実験の概要」(2009年10月23日、PDF)
- 高エネルギー加速器研究機構「小林・益川理論50周年記念講演会」(2022年12月22日、PDF)
- Mohapatra「Neutrino mass and the origin of matter」(Physics Today、2010年4月、PDF)
- Pereira ほか「Baryogenesis: A Symmetry Breaking in the Primordial Universe Revisited」(arXiv、Symmetry 16巻、2024年)
- APS News「August 1932: Discovery of the Positron」(2004年8月)
- コトバンク「陽電子」
- Cohen ほか「A Matter-Antimatter Universe?」(arXiv、The Astrophysical Journal 495巻、1998年)
- Cohen ほか「A Matter-Antimatter Universe?」(The Astrophysical Journal、1998年3月10日)
- ブルックヘブン国立研究所「Discovery of Violations of Fundamental Symmetry Principles」(1980 Nobel Prize)
- APS News「Val Fitch 1923-2015」(2015年2月11日)
- コトバンク「小林誠」
- Physics Today「B-decay experiments show clear violation of CP symmetry」(2001年9月1日)
- Gavela ほか「Standard Model CP-violation and Baryon asymmetry」(arXiv、Modern Physics Letters A、1994年)
- LHCb「Observation of the different behaviour of baryonic matter and antimatter」(2025年3月25日)
- Nature Japan「素粒子物理学:CERNで観測されたつかみどころのない物質と反物質の非対称性」(2025年7月17日)
- Science Media Centre Spain「CERN’s LHCb observes matter-antimatter asymmetry in baryons for the first time」(2025年7月16日)
- LHCb Collaboration「Observation of charge-parity symmetry breaking in baryon decays」(arXiv、Nature 643巻、2025年)
- カリフォルニア大学バークレー校「Antimatter embraces Earth, falling downward like normal matter」(2023年9月27日)
- スウォンジー大学「ALPHA collaboration at CERN confirms antimatter falls in the same way as matter for the first time」(2023年10月3日)
- リバプール大学「BASE collaboration compares protons and antiprotons with an unprecedented precision」(2022年3月14日)
- Fukugita, Yanagida「Baryogenesis without grand unification」(Physics Letters B 174巻、1986年)
- Drewes ほか「Leptogenesis: Improving predictions for experimental searches」(ICHEP2016 会議録、2017年)
- 東京大学宇宙線研究所「【プレスリリース】ニュートリノの『CP位相角』を大きく制限」(2020年4月16日)
- 慶應義塾「ニュートリノの『CP位相角』が取り得る値を大きく制限」(2020年4月16日)
- Kavli IPMU「T2K Results Restrict Possible Values of Neutrino CP Phase」(2020年4月16日)
- NASA「Alpha Magnetic Spectrometer」
- CERN「AMS」
- カールスルーエ工科大学「Tracking down Antimatter in the Universe」(2011年4月26日)
- ペリメーター理論物理学研究所「Is there complex antimatter in the wild?」(2025年7月23日)
- Bykov ほか「Antistars as possible sources of antihelium cosmic rays」(arXiv、2023年)
- 東京大学「ハイパーカミオカンデ空洞掘削完了見学会を開催」(2025年7月25日)
- 東京大学大学院理学系研究科「Excavation of the Colossal Cavern for Hyper-Kamiokande Completed」(2025年8月5日)
- JST サイエンスポータル「巨大な地下空洞が完成 宇宙と物質の謎に迫る素粒子観測装置『ハイパーカミオカンデ』設置へ」(2025年9月25日)
- NASA Image and Video Library「The Alpha Magnetic Spectrometer on the International Space Station’s starboard truss structure」(iss075e0068625、2026年8月25日)
アイキャッチ画像:NASA/Anil Menon 2026年8月25日に撮影された、国際宇宙ステーションの骨組みに取り付けられている観測装置AMSです。宇宙線の中に、反物質やダークマターの手がかりを探しています
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